夢のまた夢

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zoom RSS 糸瓜忌

<<   作成日時 : 2007/09/19 03:10   >>

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をとといの へちまの水も取らざりき。 
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな。
痰一斗 へちまの水もまにあわず。
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明治35年9月18日、昼前、正岡子規は、この歌をかろうじて、書きつけ、筆を投げるように置き、その日のうちに昏睡状態となり、そのまま19日午前1時ごろ、亡くなったという。



この前年「墨汁一滴」を連載しさらに,病気の悪化に伴って「病臥漫録」を連載、
さらには、その死の二日まえまで、「病牀六尺」を連載しつづけた。

22歳で結核を患い、「鳴いて血を吐くホトトギス」っと ホトトギスをさす「子規」を己の号として
<余命10年>の覚悟のうえ、病とともに生きる決意をしたのだという。

脊髄カリエスに冒されほとんど寝たきりの状態で、モルヒネを打ちながら、詩歌を作り、原稿を書き続けた。
伝統的な詩歌、俳句の革新、「写生文」を提唱した子規は、その後の文学の流れをおおきくかえていった。
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写生・・・・絵を描くことの好きだった青年は、平易な言葉をもって文章をつづることをめざし、
彼の歌は、今読んでも明治という時代を感じさせない新鮮な息吹を感じさせる。

漱石、鴎外の文学にも大きな影響を与えていった 正岡子規、
わずか35年の生涯、寝たきりの生活を彼は<病気をたのしむ>と呼んだ。
多くの仲間たちが、病床に集い、文学を語り歌をよんだ。
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そんな子規も、その痛みに耐えかねて、自殺をもくろんだこともあるという。けれど・・
病臥漫録に、言う 「死は恐ろしくはないのであるが 苦が恐ろしいのだ・・・・」と
さらに、「病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きて居ても何の面白みもない」と、

病気と正面から向き合って、己の死を予感しながら、その死の直前まで、精神は病に負けはしなかったのだと・・・・・

東京根岸に 今も 子規の終の住まいとなった「子規庵」がある。
鶯谷の駅近く、通学の途中の露地の奥にあった子規庵は、なじみ深く、そのせいか、
明治のいにしえの人とは思えないのです。


やっとPCの扱いがなんとかなってきました。写真のファイルの扱いもどうやらこうやら・・・・







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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
糸瓜=ヘチマと読むことができずに「糸瓜忌」の意味がわかりませんでした。
ありがとうございます。
正岡子規というと歌人ですよね。
短歌をたしなもうと思いながら気分が乗らない凡人には壮絶な闘病生活を経ながら詩を詠む・・・ある意味、病気だからできたのかな?などと思ってしまいます。
Tatehiko
2007/09/19 18:54
「糸瓜」をヘチマとはなかなか読めないかもしれません、失礼しました。
確かに・・闘病のを楽しむという姿勢から生まれたのかもしれません!
蝸牛
2007/09/19 20:31
今の時代なら治った病気、或いはたとえ病床暮らしでも、ずっと長生きできたであろうに、そうすればもっともっといい作品が…と思うのですが、いや、死を見つめればこその魂の輝き、とも思います。よく死ぬことはよく生きることだ、と言いますが「死ではなく苦が恐ろしい」というの、なんとなくわかります。「子規」と名をつけるシャレっ気が、もう病気に勝ってますよね。
とんぼ
2007/09/19 20:46
とんぼさま
と、言いつつも、介護する家族は大変だっただろうと・・・・結構、我儘もいったらしいですから
蝸牛
2007/09/20 01:05
お〜 これで へちまと読むのですか?勉強になりました。耳の中にある「かぎゅう」も 忘れていたのを思い出させていただき 重ね重ねありがとうございます。
正岡子規は 若い頃 野球選手だったそうですね。ポジションは捕手だったとか。何だか 親しみがもてますね。
あさがお
2007/09/20 17:19
あさがおさま
ヘチマ・・読めないとおもいます。
余談ですが・・
飛騨には、ヘチマみたいな、形のカボチャがあるんですよ・・
蝸牛
2007/09/21 11:00

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